北欧暮らしになくクウネルにあるもの(フィールドノーツ2026Jan17)
合点がいくのを目指し、まずは北欧暮らしの苦手ポイントを挙げる。
次に、クウネルの好きポイントを挙げる。
そこから、対比される要点を析出。
1
前にBloggerに書いたんだけれど、洋服を楽だから選んでいるのに、それがそのまま素敵さの結び付いている、という不自然さを、矛盾しないものとして提示していたこと。しかし、私的には素敵では全くなかった。
それは太いストレートのパンツ。上から下まで太いので、低身長には厳しいスタイル。しかも、楽だという格好が、上から下までアイロンがかかっている。ストールまでパリッとしている。
恐らく、好きではないスタイルで、リーズナブルではないスタイルで、しかもその正当化が矛盾を孕んでいて、全体が破綻しているので、嫌だった、のだと思う。
2
自分で甘味処をやっている女性が、白玉あんみつを盛り付ける場面に、激しいしんどさを感じた。5つくらいの、ものすごく小さい白玉を、ものすごく小さい器に盛られたあんこの上に、丁寧に一つ一つ、輪になるように載せている。
私はあんまり食べられないし、小さい器にちょっとが良い、みたいな女性のプレゼンが大嫌いなので、その画像に激しい不快感を覚えた。
恐らく、かなり盛られた現実を、そのまま再現して、それに対して良いな、と思うように見込んだ構成が、日本の女性の現実を作っている、と見たからかな、と思う。
3
弁当作成場面も同じ。
4
年がかなりいった女性が家を買ったり、企業したりしているが、きれいな部分のみ写し、現実感がない。それに憧れろ、というメッセージは、負の連鎖しか産まない、と思う。羨望、向上心、しかしママならない現実。それへの処方箋は全く提示されていない。
5
多分、商品を、既存の価値観を温存したまま、しかし、ラディカリズムも含んでいるかのように見せながら、購買するように、あるいは欲望するように促すが、失敗する可能性が高いでああろうそれらへの、セーフティネットは全く設定しないし、むしろそれにより、商売が上手くいく仕組みになっている。
6
クウネルも、消費を促す構造になっている。先の記事で書いたボタンでジュエリーを作っているお姉さんの着ている服は、基本的にハイファッション。しかし、足元は、健康や安全を考えたスニーカー。しかし、そのスニーカーの色の選び方などが絶妙で、しかし、サイズ感と値段と相談している現実派で、並べて画面に入るくらいの量であるのも、現実的。
見ている側に、同じような工夫のしがいがある。スニーカーなど、履くものの自分なりのカスタマイズ、服の着こなしも、スタンダードを自分なりに外すことで自分のスタイルを作る例、として設計されている。
楽なのは、サイズの合ったスニーカー、なので、ある意味当たり前。そこは直球ストレート。しかも、しっかり大地に立つ立ち方が、より現実感を出している。しかし、お姉さんはキュートである。
丸襟の保育園児的スモッグも、かなりひねりがある。保育園児的スモッグ感を敢えて全開にした襟と丈感だが、それでは済まさない、という凄みみたいなのが、可愛らしさと一緒に出ている、ので、ユニークな一点、になり得ている。それを、可愛らしいのが好きでとハッキリ言っているのが、スニーカーでしっかりと大地に立ちながら述べているので、75歳という年齢を自覚し覚悟してやっている感じ、に繋がっている。
そういう説得力の高さ、みたいなものを、いつも私が必要としているというのが、分かる。
7
北欧暮らしにないのは、そういう実感と、論理に裏打ちされた、その人がそれを選ぶ説得力、だろう。
8
もう一つ、クウネルで次に見て、ガハガハ笑えて、すごく気に入ったのは、85歳、アパレルショップ店員の女性。
まず、店員、なところが良い。現実。
しかし、恐らく育ちがかなり良い女性。でも、その育ちの良さの身体化のされ方、育ちの良さと、恐らく嫁に行った先の家柄の良さに裏打ちされているであろうファッションセンスが、庶民からかけ離れているん感じに凄みがあり、その凄みが物凄く強い。さすが、85歳の年季。
嫌味なところが素敵味になっているローザンヌバレーコンクールの審査員のコメントみたい、である。
もともと、そういうのが私はすごく好き。
問題があるのは分かるが、それにはそれなりのリーズナブルさがあり、それを動じないで言い切っている、というのは、ある種の文化のあり方。
もちろん、それを拒否する権利を消費者は持っている。
9
北欧暮らしにないのは、そういう視聴者が主体として立ち上がる隙間、あるいは前提、だろう。
10
結論。
北欧暮らしは、消費を促すための設計が、消費者の主体としての立ち上がりを否定している商業メディアであり、それが明らかに北欧の現実的な実践の設計とは矛盾している。北欧的生活感は、「購買や消費を通して自己実現する」ものではなく、むしろ逆であるはず。自己実現が、自分なりの消費や、購買より自作的な何かを生み出す、的な感じ?
つまり、北欧をその本来のあり方とは逆向きに消費しているのに、本来的であるとタイトルに銘打っている矛盾が、北欧暮らしという消費メディアそれ自体、である。
クウネルの消費を煽る対象は、むしろ高価だ。しかし、オートクチュールは、そういう憧れの消費という、殿堂入りしている直球。そういう意味で、ある意味、安心だし、安定している。
11
私は自分の嫌悪感みたいなインテューイティヴな感覚をけっこう信頼している。皆さんも、ぜひそうされてください。
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